季節風
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コーリンゲンの春も半ば、林檎の花が散り始める頃。

南から吹く風は軽く、空は今日も霞なく晴れ渡っていた。

レイチェルは村はずれにある街道の入り口までロックを見送りに来ていた。
依頼主からの調査にめどが立ち、報告がてらまた新しい宝を求めに旅立つしばしの別れ。
訪れては去りゆく彼の生業はまるで季節の移ろいのようで、
引き止められるものではないとわかってはいたが、
この寂しさに慣れることはいつまでも容易ではなかった。


「また、ね」
「ああ」
「次は、いつ?」
「さあなぁ、そのうち」

こちらの気持ちなどどこ吹く風で、ロックは素っ気無く答える。
そんな風に適当に言わないで欲しい。今日明日だけの別れじゃないんだから。
ねえ…行かないで。
喉まで出かかったそんな我儘を辛うじて飲み込み、
レイチェルは視線を上げるとぐい、とロックに詰め寄った。


「ロック、これ、あなたに貸すわ」
「?」

そう言ってレイチェルがロックの手に握らせたのは、花をあしらった銀細工の小さなピアス。

「貸すわ、って、女物だろ。趣味じゃねえぞ」

迷惑顔でつき返しかけるロックの拳を、華奢な両手は押し返して胸元に抑えつける。

「違うわよ。これはパパから誕生日にもらった大事な物なの。旅の間、絶対無くさないで!」
「そんなに大事ならなんで俺なんかに持たせるんだよ」
「わからないわねぇ。ちゃんと持ち歩いて、必ず私のところまで返しに来てって言ってるの!」
「…」
「何よ。新しい冒険があるんでしょ。早く行っちゃいなさいよ」

気持ちを悟られまいと口調は無意識に尖ってしまう。
こんな見送り方したいんじゃないのに、と
レイチェルはまくし立てながら自分のみっともなさに嫌悪する。

「なんだよ、とっとと行って欲しいみたいに。じゃあな、レイチェル。ちゃんとまた来るから」

そんな強張った心はくしゃくしゃと丸められ、
おどけたように肩をすくめるロックに放り投げられる。
それでも別れの言葉を言えずにいるレイチェルに、
ロックは子供にするみたいによしよしと頭を撫で回して笑った。


何度も振り返っては手を振っていたロックの纏う青が
やがて空と山々の色に混じり合い、溶けていく。
そうなってからどれぐらい経ったか、レイチェルはその場にうずくまって
ひとり涙を流した。



それから一週間ほどして、レイチェルの家に一通の手紙が届いた。
差出人はロックだった。

次の町に着いたと、お世辞にも綺麗とは言えない字で
一言書きなぐられていただけだったが、
彼がそういうことにはとんと無精だということを知っていたレイチェルは、
その精一杯の気遣いに飛び上るほど喜んで知り合い皆に見せて回ったものだった。


その後も、どの街に来ているとかこれからどこに行くとか、
ほんの短い文章に見たことのない花の種や色鮮やかな鳥の羽根を添えて、
手紙は何度か届いた。
片手でも余るほどではあったが、持ち主がどこで何に出会っているのか、
未知の冒険に思いを馳せるには充分であった。
そしてその淡い空想の終着地は、決まって自分の待つこの家。


しかしふた月経ち、三月経ち、半年も過ぎると、手紙が来ることもなくなってしまった。

周りの者たちは旅人の気まぐれな恋慕に惑わされただけだと笑っていたが、
そんなことはどうでも良かった。


ロックは絶対帰ってくる。
手紙は面倒だからってひょっこり現れて、昨日別れたみたいに「よう」って笑いかけて、
誰が無くすって?なんてふんぞり返りながらピアスを返してくれるんだわ。


とは言え、こんなに音沙汰がないのは初めてだった。
固く信じている足元に、不安の影はひたひたと忍び寄る。

もし、ロックが都会の街のうんと素敵な女の人の方を好きになっていたら。
どこかで怪我や病気をして動けなくなっていたら。
万一事故にでも遭って…

考えたくもない可能性は悪夢となって、目覚めに頬が濡れていることも何度となくあった。
それでもレイチェルは幾日も幾日も、ロックの息災とその日が来ることを祈り続けた。



しかし、レイチェルの手元にピアスが戻ることは二度となかった。



再会を約束してから季節がひと巡りしかけた頃。
雪交じりの寒風が未練がましく吹き渡る、ある午後。

春用の毛糸をたくさん買い込んでレイチェルが帰り道をてくてく歩いていると、
牧場の柵に所在なげにもたれている男の姿が目に留まった。
髪も服も草臥れて、記憶よりも少し精悍に、
それでいて随分疲れているようにも見えるけれど、あれは、まさか。


「…ロック……?」

男はぎくりと背を伸ばすとおずおずと振り返り、
ほっとしたような、途方に暮れたような曖昧な笑みで片手を上げた。


「…よう」
「ロック!!
「…ごめん!!

駆け寄ろうとするレイチェルに、ロックは勢い込んで頭を下げた。
意味がわからず戸惑っていると、顔色を窺うような上目づかいでもごもごと口を開く。


「いや、その…約束、守れなくて。俺、お前のピアス…」
「ばかっ!」

話など最後まで聞きもせず、レイチェルはロックの胸に飛び込んだ。

「約束なんてどうだっていい!なんでもっと早く帰ってきてくれなかったの!?
「えっと…」
「私、ずっと心配っ…」

続きは言葉にならず、レイチェルはわあわあと泣き崩れた。
ロックは困り果て、自分の格好の汚さに一瞬躊躇ったが、
せめて手のひらをズボンの尻で拭うと遠慮がちにレイチェルの肩に回した。


抱擁と呼ぶにはあまりにも拙い腕の中の感覚に、離れていた時間が嘘のように縮んでいく。

「ううん、ごめん。違うの、そうじゃなくて…。
 ロック。お帰り」
「…うん。ただいま」

長くあたため続けていたその一言を交わし合い、少年と少女はしばらく影を重ねた。



「それで、ピアス、無くしちゃったの?それとも、落とした?」
「それなんだけど」

途端に歯切れの悪くなるロックに、レイチェルが首をかしげる。

「…売っちまった」
「…売ったぁ!?」
「しょうがなかったんだよっ」

流した涙はどこへやら、たちまち眉を吊り上げるレイチェルにロックは弱々しく噛み付いた。

「仕事でヘマしちまって、有り金も荷物も全部取られてさ。
 あれだけは死守してたんだけど…―いや、悩んだんだぞ!?
 でも、何日も飯食えなくて、もう飢え死にしかないって時に
 駄目元で換金屋に持っていったら…その…ゴメン」

「それでどうしたのよ」

しゅんとうなだれるロックに続きを促す。

「それで食いつないでる間に住み込みの仕事見つけて、ハント休んで働いてたんだ。
 で、やっとコーリンゲンまで行けるくらい貯まったから、
 せめて顔だけでも見れたらと思って…」


心底肩身の狭そうにしているロックをじろじろと見定める。
遠目に見かけたときは内心みすぼらしそうな不審者がいるとまで思ってしまったのだが、
それは彼がコーリンゲンの厳しい冬には到底釣り合いそうもないいでたちでいたからだった。
羽織っているマントは申し訳程度の薄さで、
ジャケットもブーツもあちこち擦り切れてぼろぼろだ。


「馬鹿じゃないの」

咎めるように、レイチェルは唇を尖らせた。喉元がごつごつする。

ここに来るまでの旅費があるなら、温かな冬服の一枚も買えるでしょうに。

湯気の立つ食事とふかふかベッドの揃う宿にだって泊まれるでしょうに。

「馬鹿じゃないの…」

繰り返して再び瞳を潤ませると、ロックが眼差しに熱を込めた。

「逢いたかったんだ」
「…うん」

それにつられてレイチェルも泣き笑いの顔になり、ロックに目元を拭われる。
その氷のようにかじかんだ手をいとおしむ様にそっと包み、
ゆっくりと深呼吸をひとつ、ふたつ。


そうして瞼を上げると、レイチェルはもうすっかりいつもの自分を取り戻していた。

「いくら」
「え?」
「いくらで売れたの、私のピアス?
 お金も荷物も取られちゃうような失敗って、どんなことしたの?
 お金がない時はどうやってご飯を食べるの?それから―」


そうだった、私、なんで忘れていたのかしら。

レイチェルははじけそうな幸福感に頬を染めた。

季節は必ず巡ってくる。約束なんかしなくたって、必ず。
いいえ、季節はその訪れを誰にでも告げるけれど、
ロックはその便りを真っ先に、私のところに知らせてくれる。

そして広げた地図をなぞりながら綴られる冒険譚の中で、
私はロックの足跡を辿りながら一緒になって獣を追い払い、罠に舌打ちし、
絶景に歓声を上げるんだわ。

戦利品なんかなくたって、その物語が、物語を分かち合うその時間が、
どんな宝より価値のあることか!

馬鹿なのは私だ。
どんなに離れていたって、ロックは私のことでこんなに一生懸命だっていうのに!


「おい、くっついたらお前まで冷えちまうぞ」
「いいわよ!お話ししてたらロックもすぐに温まるわ。
 おなかすいているんでしょう?今日はうちで食べていって、
 その代わりお話を全部聞かせて!全部よ!」


かごから毛糸玉がいくつか転がり落ちたのも気が付かずに
レイチェルはロックの腕にしがみつくとぐいぐいと家路を急いだ。
寒さで足元さえおぼつかないロックの抗議などお構いなしに。


泣きべそをかいたかと思えば急にうきうきと質問の雨を降らせるレイチェルに、
久しぶりの再会にムードもへったくれもないな、とロックは呆れた顔をしてみせていたが、
その陰でこみ上げる鼻の奥の痛みを誤魔化すのに必死になっていた。


懐かしくて嬉しくて愛しくて、
本当はここに来るまで自分のことなんか忘れてしまっているんじゃないかと
怖くてしょうがなくて、
それでもレイチェルは変わらず待っていてくれて、
あのまま見つめ合っていたら不覚にも涙が零れるんじゃないかなどと
内心焦っていたからだ。


しかし、されるがままに腕を引かれているうちにごちゃまぜの緊張もようやくほどけ、
今回の旅の話をどこから話してやろうか、
ロックもまたヘーゼルの瞳を次第に輝かせていった。




まだ深い雪さえ解かしてしまいそうな笑い声を上げながら、
少年と少女は家へと続く丘をじゃれあうように駆け登っていった。


それはまるで、一足早い春の訪れを告げる 風のようで。





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■季節風■

ロックがレイチェルとの約束を守れなかった時ってどんなシチュだろうと
イメージした話ですが、よく考えたら(稼業については)約束を守れたことの方が
少ないんじゃないかという気もしてきた。w


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